怪獣の部屋
26.東宝編2
1962/8 |
1965/8 |
1964/12 (B全判×3の3シートポスター)まさに驚天動地のど迫力! |
「ロストワールド」(1925)と「キングコング」(1933)でモンスター映画というジャンルを確立した男”ウィリス・H・オブライエン”。しかしその晩年はちょっと寂しいものだった。「キンギコング」のあとの彼の業績は?と聞かれて、即答出来る人は、かなりのマニアだけでしょう。弟子のハリーハウゼンと組んだ「猿人ジョー・ヤング」や「動物の世界」、あるいは巨大サソリやクモがストップモーションで不気味に暴れまわる「黒い蠍」など、ファンの中では話題に上る作品もあるにはあったんだけど、興行的に目を見張るものはなかった。彼はもう過去の人になってしまってたんだ。しかし、オブライエンは最後まで夢を捨てなかった。 1961年、オブライエンは”キングコング”の復活に最後の望みを賭ける。その名も「キングコング対フランケンシュタイン」。これはコングが、フランケンシュタイン博士の孫が創り出した怪物とサンフランシスコで対決、最後は両勇からみあったまま、ゴールデンゲイト・ブリッジから海中に没する、というものであったらしい。オブライエンは、この企画をコングの版権を所有するRKOへ持ちかける。が、その後この企画はジョン・ベックなる人物の手に渡り、内容を変えられた挙句、海外の映画会社へと売り飛ばされてしまう。これを知って激怒したオブライエンは、もう一度この企画を様々な会社へ売り込みにまわるが、もうこのとき彼の話に耳を傾けてくれる者はどこにもいなかった。翌年の1962年11月8日、彼は失意のまま自宅でひっそりと息を引き取った。享年76歳。夢は叶わなかったのか。いや、実は思いもよらない形で実現していたのである。企画を買い取った映画会社とは、”東宝”だったんだ。 |
合成のセンスが光る名シーン |
皇帝さまとお呼び! |
モスゴジ出現!か、かっこいい〜。 |
東宝は、好調な海外セールスのなかで、このキングコングの映画化権を手に入れることになるのだが、その後この企画は変更に変更が加えられ、最終的には東宝創立30周年記念映画「キングコング対ゴジラ」として完成する。ゴジラは7年ぶりの、そしてコングは実に28年ぶりの復活であった。アメリカの大スター”コング”と対等に張り合える対戦相手は、やはりゴジラしかいなかったんだね。これによってその後のゴジラの対決路線がスタートする。つまりこの企画がなかったらゴジラの復活はもっと遅れていた・・いや、なかった可能性すらあったんだ。オブライエンの魂が東西の怪獣王を甦らせたのかもしれないね。 60年代前半は、東宝の怪獣黄金時代だ。「モスラ」「キングコング対ゴジラ」「妖星ゴラス」「モスラ対ゴジラ」「地球最大の決戦」「怪獣大戦争」「フランケンシュタイン対バラゴン」、タイトルを聞いただけで、胸が熱くなり、体温が約1℃上昇し、軽いめまいに襲われ、場合によっては便意をもよおします(病気か?)。50年代のものと比べると、どの作品も明るく楽しい娯楽作品といった印象が強く、家族みんなで安心して楽しめるってな感じです。「キングコング対ゴジラ」の初公開時の観客動員数は1250万人。平成ゴジラシリーズの最高が「ゴジラVSモスラ」の420万人っていうから、その凄さが解るでしょ。これに3度のリバイバルを足したら・・でも「もののけ姫」にはかなわんかな? |
観客の度肝を抜いた引力光線の大迫力 |
Aサイクル光線でそれ逆転だあっ |
フランケンシュタインと大ダコの死闘 |
この頃の東宝特撮映画はどれも大好きだけど、ここでは他であまり取り上げられない「宇宙大怪獣ドゴラ」について触れておきましょう。このドゴラ、世間の評価は低く、あまり話題にも上らない作品だけど、僕は東宝特撮映画のなかで、かなり上位にランク付けしてしまう。その理由は簡単、北九州が重要な舞台となってるからなんだ。 皆さんは自分の生まれ育った街が映画の中に登場したらどんな気分でしょうか。しかもその街が精巧なミニチュアで再現され、怪獣に破壊されたとしたら・・。高校卒業までの18年間を北九州で過ごした僕がこの映画を初めて観たときの嬉しさを、お解かりいただけるかな?。関門大橋が出来るまでは、若戸大橋は東洋一の吊橋だった。ドゴラはその若戸大橋を、そして北九州の街をぶっ壊しちまったんだ。たまに故郷に帰ると、若戸大橋の上空に今でもドゴラのまぼろしが浮かぶことがある。ドゴラが壊した時とは随分変わってしまったけどね。 でもこの思い入れを差し引いたとしても、このドゴラ、そんなに悪い出来じゃあないと思うんだけど皆さんは如何でしょうか。え、観てないって。そ、そうですか。本多猪四郎の演出が冴えるテンポの良いストーリー展開、そして何より、清楚な美しさの藤山陽子と妖しい魅力の若林映子をチェックするだけでも観る価値は十分にあります。 |
最後にもう一度W・H・オブライエンについて語ろう。確かに彼の晩年は不遇だったかもしれない。でも決して不幸な人生だったというわけではない。だって彼は「キングコングを造った男」として永遠に語り継がれるんだし、だいいち、76歳になっても夢を持ち続けられるなんて、ちょっといいよね。東宝版コングは、彼の死の翌年1963年に米国で公開されている。彼の企画とはまるでかけ離れてしまったこのコングを、天国のオブライエンは悲しんだだろうか?。いや、僕はきっと笑ってると思うよ。「おいおい凄いコングができちまったな」ってね。W・H・オブライエンの妻ダーリーン・C・オブライエンは、夫の死後、彼のことを振り返って次のように語っている。 「一般的に言う良い夫というタイプではなかったけれど、永遠に歳をとらない、夢見る少年のようなひとでした」 |
1961/10 |
1962/3 |
1963/12 |
1964/8 |
1965/12 |
(2000/8)